自己不全感とニヒリズム考

 今を去ること15年前、私は人間存在の究極的な目的を考察した結果、そのようなものはないと考えました。もしあるとしたら、生きる事そのものしかないのではと考え、もしそうなら、人間共通の目的は永遠の命を手に入れることであろうとも考えました。
 しかしそのことはニヒリズムに通じました。生きることの目的は生きること、それでは実質的には、人生は無目的になってしまいます。私はこの世に一切の価値を認めないという、偏見にとらわれました。
 私はたびたび生きるのが嫌になりました。それから15年後の現在、私は自分自身の認知の歪みにやっと気付きました。それは自己不全感でありました。まだ少年だったころに、両親は私を邪険に扱いました。私は自分は本当はいなかったほうがよかったのではないかと、自覚はありませんでしたが感じていたのです。おそらくこの自己不全感を補償することが、私の思索の動機だったのでしょう。 
 現在私は次のように考えています。
1、人間は生命の一種である以上、生きていること自体に目的は無い。
2、現に生きているからには、生きていることを肯定するのがよい。否定したら死を選ぶしかないから。
3、善悪は人間社会の約束事を基準に判断するのが妥当。

1、2、3、の考えはそれぞれが並立しているので、同じ系では扱えない。
 このように考えれば、錯綜した思考に捉われなくて済むと考えます。生きることに目的が無いからといって嘆く必要もなく、また、善悪を無視してなにをしてもかまわないといった極端な思考に走ることもないはずです、そう考えるならば。このことは理性的な体系的思弁は、科学には有効かもしれませんが、人生の問題を考えるには不適切であることを示唆します。
 これらのことから結論されるのは、人間は自分の人生の目的を自分で決めていいということです。誰の命令でも指示でもなく、自分で決めていいのです。それが自由意志の本質と考えます。特に大切なのはまず生きていることを肯定することです。おそらく真の自信とはこれから生まれます。
 このことから想像するに、なぜにオウム真理教事件が高学歴の信者によって行われたかといえば、日本の一流大学に合格するには、常に自己否定が必要だからです。今日の自分よりより優れた自分になろうとする、ということは現在の自分が否定され乗り越えられるべき存在だという意識を生みます。これは自己不全感に常に直面することと同じです。そういう彼等の自己不全の癒しがオウム真理教にはあったのでしょう。あの修行するぞというメッセージは、否定されてきた自己が完成して、肯定できるようになるという意味を含んでいたのです。つまり自己不全感の解消というエクスタシーがあの宗教にはあったのでしょう。だからこそ、これは日本社会がつきつけられた大問題なのです。
 
     

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この記事へのコメント

2009年01月03日 13:16

謹んで新春のお祝辞を
   申し上げます
 ご健康とお幸せな年になりますよう
   お祈りいたします
2009年01月04日 21:45
織り姫さんも良い年になりますよう、お祈りいたします。

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