生命哲学序論 本編 第十一章

11-1
 前述したとおり、私は魂が不滅であると認識している。またそのことはソクラテスが証明しており、私はそれに反論しないのである。というより、ソクラテスに反論出来なければ、魂が不滅であることを認めるべきなのである。私は寡聞にして、反論出来た人間を知らない。さて一方肉体は確率的に存在する、現象なのであった。そのことは量子力学が証明するし、現実なのである。このことから次のことが言えはしないか? 我々がより本質的とするべきなのは、肉体ではなくて、魂なのだと。というのも、肉体は確率的にしか存在しない、不確かなものなのであって、不滅の魂こそが、実体であるから。そうなのである。生命の本質は魂なのである。少なくとも、現実から導き出される意味はそうなのだ。
11-2
 不滅であるものは、増えもしないし減りもしない。生まれることも死ぬことも無い。これは神の性質ではなかったのか? 永遠と無限。ということは、魂は神と質が同じである。我々人間と神とは、その本質を神と同じくしているのだ。それでいて我々は被造物である。被造物が神と本質が同じとは、この世界ではあり得ない。しかし神の世界ではあり得るのである。というのも神は万能者だから。万能者ではない神など想定出来ない以上、そのことは論理的な帰結である。
11-3
 従って、ソクラテスが言ったように、魂の世話は人間の最高の務めである。それ以前に、我々は自分の根源は魂であると、気付かなければならない。このことは『バガヴァッド・ギーター』で既に述べられている。我々がそのことに気付かないのは、魂が肉体と結合したために、認識が曇ってしまうからである。およそ欲望と無知は、我々に真理を認識することを厭というほど妨げるのである。
11-4
 肉体には本能という機能が備わっている。それはそれで、必要であって、完全に捨てることは不可能であろう。かといって、本能的な欲望に従ってだけいるのでは、生命の本質が、つまり我々人間の本質が、魂であることに気付かないで一生を終わるのである。そのような生は極めて動物的である。肉体的な快楽のみを追求する一生は、影のように消え去り、空しいのである。そのことを仏教では諸行無常というわけだ。ここでまた信仰ということが問われなければならない。

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