生命哲学序論 本編 第十二章

12-1
 この論考の趣旨は生物としての人間を考えるというものであるから、魂や神や信仰のことを持ち出すのは、脱線しているのかもしれない。しかしそのような言及は、自然科学を意識したものではある。自然科学が想定しているのは、物質の世界であるから、人間を対象にすると、肉体を観察することとなる。しかし既に指摘したように(第二章と第三章を参照のこと)それだけではどうしても、精神について知ることは出来ないのであった。もちろん精神の現象を、肉体に観察することは可能である。しかしそれは現象であって、精神そのものではない。精神そのものの存在は、魂があるとしないと、説明がつかないのであった。
12-2
 そもそも物質は思考しない。思考しないものから、思考する主体を導き出すことには無理がある。だから唯物論的な精神の解明は頓挫したのである。それは物質のみから生命を解明しようとする試みが、どうしてもうまくいかなかったことと連動している。生命は物質の運動が延長したものではなく、魂という現象の次元にはない存在が、その本質なのである。そう考えないと、初期の地球における生体物質の組み合わせは天文学的な量があって、そこから生命体が発生した理由を、説明できないのではなかろうか? 生命体を肉体に限定して考えたので、魂は考慮されなかった、それが自然科学の限界である。しかし生物体に関する、自然科学の膨大な観察結果が、今後技術に資するだろうことは、充分に評価に値するだろう。しかしながら、形而上学を無用のものとみなす、無知な科学技術主義は、人間を蒙昧にしたと考える。
12-3
 霊的なことは科学の名の下に、妄想か迷信という扱いを受けた。しかし霊的なことを現代人は再考する必要に迫られている。というのも、技術主義の絶えざる前進は、人間の力を肥大させているからである。これは著しく不自然な状況なのである。本来人間の活動は自然にある循環を阻害しないようにするべきなのである。そうしないと、自然の回復力、それは主に生命活動によって齎されるが、それが乱されてしまい、生命が生存する環境を、破壊してしまうのである。そのことは既に調査で解っていることだ。だからこその自然保全なのである。別に金持ちの自己満足ではない。では霊的なことを考えることが、なぜ重要かといえば、自然に霊を認めるならば、それへの侵犯を抑制する意識が生まれるだろうからである。たとえ樹の一本でも、そこに霊があるとするのと、ただの森林資源としか見ないのとでは、自然に対する態度が変わるのである。
12-4
 自然は人間を含めた生命が生きる場なのであって、資源の供給源ではない。この意識が重要であるが、そのような意識を持つためには、現代人が一度捨ててしまった、信仰心というものが、どうしても必要であろう。つまり人間以上の権威を認めなければならないのである。その場合、人間が中心となってはいけない。他の生命も、人間と同様であるとしなければならない。なんとなれば、例えばあなたが飼っている猫は、生まれ変わって、いつか人間になるかもしれないということだ。魂の不滅と輪廻転生を認めるならば、そのように認識するしかない。また生態学の成果からしても、この世の生命に無駄な存在は一切ないのである。それぞれの生命の活動は、他の生命の役に立っている。そのように支え合って生きているのが、生命圏の実像だと言えるのである。この点を、特に先進国の人間は、認識しなければならないだろう。映画「降りていく生き方」はその点で示唆的であった。ぜひ見て欲しいと筆者は願う。産業社会の経済論理ばかりがまかり通るなら、人類の未来は暗いと言わざるを得ないのである。

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